【ウクライナ】チェルノブイリ|32年後の”いま”を見つめて

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I’m in Cambridge, UK.

 


 

こんにちは。

 

東欧を終えてバルト三国、そしてかなり早足で北欧を訪問し、現在はイギリスまで来ました。2ヶ月半のヨーロッパ旅も本日で最終日。明日からはアフリカへ。

 

さて、今回のエントリはご存知の方も多いであろう「チェルノブイリ」での思い出について。

 

その前にそれまでの道程をざっくりと説明をまず。

 

ポルトガルからスタートした今回のヨーロッパ旅。トルコまで早足ながら各国を横断し、トルコからブルガリアに戻り再度東欧各国を訪問。そこからポーランドを経て、ウクライナへ。

 

ポーランドの首都ワルシャワから夜行バスに乗り、首都キエフへ向かう。今までヨーロッパ各国を移動していた時と異なり、バスはヨーロッパ中を走る大手のLCCバスではなくなった。プラットフォームで待つバスは年季が入っている。

 

「キエフ行きですか?」

 

バスの行き先表記が英語でなかったため、停まっていたバスのドライバーに尋ねた。

自分の「キエフ」の発言が少し異なるようで理解してもらえない。ようやくバスを見つけ、重いバックパックをバスの腹部に放り投げ、勢いよく乗り込んだ。

 

乗客もバックパッカーのような格好の人は目につかず、地元の人たちが多い。ウクライナを旅行するという人はそこまで多く無いのだろう。隣のドイツ各地行きのプラットフォームは楽しそうな若い旅行者で溢れていた。

 

席に座ろうとすると、40歳くらいの女性が必死に何かを伝えてくる。ウクライナ語とジェスチャーでの内容だったが、しばらくして意味がわかった。彼女の娘と席が隣同士になるように席を交換してあげる。

 

隣の席は20歳くらいの青年。英語が少し話せたためお喋りする。彼はキエフの手前の街で降りるそうだ。

深夜に国境を越える。ウクライナへも今までのヨーロッパ各国と同じくビザは必要ない。10€だけウクライナの通過フリヴニャに両替する。1枚の紙幣が、初めて見る310フリヴニャになった。バスに戻った際に隣の席の彼が優しく声を掛けてくれた。

 

「僕が先に降りるから、通路側に席を交換するよ。そしたらキエフまでゆっくり眠れるでしょ?」

 

心遣いが嬉しかった。御礼を言い、目をつぶり身体を休めた。

 

 

ウクライナの朝

 

朝6時頃にキエフのバスターミナルに到着。周りに見える看板は全てキリル文字なので、なんて書いてあるのかさっぱり分からない。駅前のマクドナルドでWi-Fiを拾い、今夜から2泊お世話になるカウチサーフィンのホストに連絡をし、彼女の家に向かう。

キエフはメトロと路線バス、そして綺麗なトラムが走っており移動は快適。見慣れない象形文字のようなキリル文字を注意深く観察し、時折現れる英語の看板を目で追えば、現在地が何となく分かり問題なく移動ができる。

 

ホストの家に到着。元弁護士で現在はフィットネスインストラクターをしているカーチャさん。トラムの終点駅からすぐのマンションに彼氏と住んでいる。

 

「長旅だったでしょ。お腹すいてない?」

 

彼女が明るい笑顔で聞いてくれ、昼食を用意してくれる。

甘めのパンケーキを2人で日当たりの良いキッチンで食べる。

 

「ごめんね。考え事してたら焼きすぎちゃった。」

 

少し焦げたパンケーキをつつきながら、彼女は恥ずかしそうに笑った。

 

彼女もホストをしているので当たり前だが、旅が大好き。これまでの旅や、自分の19歳での初めての1人旅などについて質問をされ、色々話す。アジアについても興味津々な彼女。お互いの国のカルチャー、働き方、生活様式などを話して盛り上がる。

 

実は前日の夜行バスでは国境でのパスポートチェック、そして安い古いバス会社を利用していたため座り心地は快適とは言えず、ほぼ眠れなかった。彼女の家に到着するまで瞼が重かったのだが、気付けば話し始めて2時間が経過。

 

初対面なのにすぐに打ち解けられるのは本当にカウチサーフィンの面白さ。訪問する前にメッセージでやり取りしているので、対面したときは、懐かしいような少し変な感情になる。

 

以前Twitterにも投稿したので、以下転載。

 

 

 

カウチホストをしている人は、基本的にはコミュニケーション目的で見返りを求めずに”give”しているだけなので、本当に仲良くなれる。

 

支度をしてキエフ中心部へ。行きとは異なり路線バスで行ってみるが意外と簡単だった。

翌日に訪れるチェルノブイリ事故の予習として「国立チェルノブイリ博物館」へ。展示自体は古いが、日本語の音声ガイドもあり事前学習としてとても良い。入場料は80円。ウクライナの物価の安さはバックパッカーに嬉しい。

 

夜は仕事から帰宅した彼氏も含めて3人でお喋り。シーシャを吸いながら、夜遅くまで3時間語り合う。彼氏はかなりユニークで、夜な夜なPCのカジノゲームで大金を稼ぐ。彼なりの戦略があるそうで、ほぼ勝てるようだ。

 

「そりゃ100%勝つのは難しいから100ドル負けるときもあるよ。でも1,000ドル勝つことが殆どだね。」

 

ぜひ時間がある時に彼に弟子入りしたい。

 

 

チェルノブイリに向かう

 

さて、翌日。いよいよチェルノブイリ原発へ。

 

※チェルノブイリ原発事故について、簡単な説明をまず以下引用。

 

1986年4月26日1時23分にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類され、世界で最大の原子力発電所事故の一つ。

2013年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業などが全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。

出典:Wikipedia 『チェルノブイリ原子力発電所事故』より

 

ちなみに、この「レベル7」となった事例は、チェルノブイリと福島第一原発事故の2件しかない。世界中を驚かせた最悪レベルの事故発生は32年前。自分が生まれる数年前の話だ。

 

幼い頃から「チェルノブイリ」の名前はニュースか授業か何かで耳にしていたが、それがどこにあるのかは恥ずかしながら知らなかった。そこまで深く興味が無かったとも言える。

福島の原発事故の際に度々その比較例としてメディアに出現し、この異国の地の名前を久しぶりに聞いた。「廃墟の町」や「動植物の楽園」と言ったフレーズが耳に残り、それはまたしても何か遠い場所にあるように感じた。

 

”チェルノブイリに行くことができるツアーがある”

 

それを知ったのは今回ヨーロッパを旅している最中だった。元々はウクライナには行かずに、ルーマニアに行くつもりだった。そこから予定を大きく変更し、ウクライナに向かうことにした。

 

チェルノブイリ事故から32年。

福島第一原発の事故は7年前。もちろん簡単に比較できる訳ではないが、福島の、そして日本の「25年後」を見ようと思った。

 

世界中で知られている「フクシマ」の現地にも自分は未だ訪れたことが無いが、この機会に是非チェルノブイリを訪れたいと思った。原発についての議論はメディアを通して多く見掛けたが、自ら経験、体験することで何かを得ようと。

 

現地の”いま”はどうなっているのだろうか。

どのように生活しているのだろうか。

人々はどのように受け止めているだろうか。

若い人々はどのように考えているだろうか。

 

・・・

 

今回は事前にネットで見つけたツアーに予約して参加。参加日の3日前に予定を決め予約をしたが、満員ギリギリだったので早目に予約した方がよいかもしれない。

参加日は8月9日。奇しくも、73年前に日本では長崎に原爆が落とされた日だった。

 

ツアーの参加費は昼食付きで79ドル。放射線量を計測するガイガーカウンターをレンタルする場合は追加で10ドル。無くても参加できるが、こまめに自分で数値を知りたいのであれば必要となる。

 

特に禁止事項などは無く、パスポートを必ず持っていくこと、長袖長ズボン・靴下の着用、スニーカーなどのしっかりとした靴を履いてくることぐらいだ。思った以上にあっさりとした参加条件に面を食らった。

 

朝8時に中心部にある広場の前に集合。広場へは、ホストの家から路線バスとメトロを乗り継いで1時間ほど掛けて向かう。

路線バスはバスというより大きめのバンという感じ。路線番号が貼られており、事前に調べたその番号を必死に探し、手を上げて運転手にアピールして乗り込む。運賃は一律で7フリヴニャ(28円)。自分のような旅行者にはこの滞在中には路線バス内で一度も会わなかった。ローカルな雰囲気が流れる。

 

迷いそうになったら、降りたい場所の地名を見せるか、必死に伝えようとすればドライバーが降りる場所を教えてくれる。まあ、何とかなる。

 

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15分前に広場に到着。ツアー参加者は自分を含めて10人ほど。

待っていた大型のバンに乗り込み、チェルノブイリ市に向かう。道中は事故についてまとめたムービーを見たり、ガイドから英語での説明を受ける。

 

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2時間掛けて、チェルノブイリ原発の30キロ圏内に到着。検問のようなゲートがあり、ここでパスポートチェックを受ける。以前は立入禁止であった圏内へは、ツアーなどを通して事前に申請をしていれば問題なく通過できる。

 

ここでの放射線量は0.16マイクロシーベルト(μSv)。キエフ市内で出発時に測った数値とほぼ変わらない。

 

 

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チェルノブイリ市の入り口にある看板。この町を支える原発のモチーフが特徴的。

 

この30キロ圏内に事故前は12万人ほどが住んでいたという。彼らが住んでいた団地はもちろん、警察や役所などの建築物もまだ残っている。

 

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現在、自分の意志でこの30キロ圏内に戻ってきて生活する人々が百数十名いる。その殆どは高齢者だ。干してある洗濯物を見ていると、ここが長閑な田舎のように感じてくる。

 

参考:

TEDGlobal 2013|Holly Morris, “Why stay in Chernobyl? Because it’s home.”

https://www.ted.com/talks/holly_morris_why_stay_in_chernobyl_because_it_s_home

 

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バスはまず事故発生場所である4号炉へ向かう。川沿いの通りでバスが停まる。

 

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奥に見えるのが4号炉。ここでの放射線量は約1.0μSvとなる。やはり近づくに連れて数値は上がっていく。福島第一原発事故の発生後、東京でも約0.9μSvが観測されたこともあった。それに近い数値だ。

 

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ちなみに、人間は普通に生活するだけで年間2.4ミリSv(2,400μSv)の自然放射線を受けているとされる。成田からシカゴへのフライ中にうける放射線量は、0.043ミリSv(44μSv)とされており、CT検査を1回受けると2.5~7ミリSv(2,500~7,000μSv)を浴びる。ガイドからは、今日1日のツアーで受ける総放射線量はトロントへのフライト1回分と同じであると説明を受けた。

 

参考:北里大学病院放射線部 「医療の中の放射線基礎知識」 
http://www.khp.kitasato-u.ac.jp/hoshasen/iryo/index.html

 

 

冷却用の人口湖と川が流れ、緑豊かな雰囲気を感じているとそこが史上最悪の事故現場であることをつい忘れてしまう。

 

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4号炉のすぐそばまでバスは向かう。

2016年末に完成した新しいドーム型の”石棺”により、数値はかなり抑えられている。事故当時、この原子炉が”むき出し”であったため、その被害が大きくなった原因でもある。事故での放射線量は広島に落とされた原爆の500倍とも言われる。

 

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現在の数値は約1.2μSv。このドームができる前は放射線量は3.0μSvを越えていたというので、やはりこの新しい”カバー”により環境は劇的に改善されていると言える。だが、他の参加者の外国人たちが原発の前で満面の笑みで写真を撮っている姿を見ると、なぜだか強い違和感を覚えた。

 

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前日にチェルノブイリ博物館で見た映像や写真では、防護服とは言えないレベルの作業着(もしくはマスクのみ)を来た作業員が除染作業や解体作業をしていた。結果、多くの作業員が被爆した。

 

その横を作業員を乗せた古いミニバスが通り過ぎていく。チェルノブイリでは今もなお、多くの人が働いている。

 

圏内にあるレストランで昼食を取り、バンは「プリピャチ市」へ。事故前は5万人が住んだ”原発城下町”だ。

事故発生から36時間後、突然の避難を命じられた住民たちは、2時間以内で支度を整えて家を出たという。そのため、準備できたものは貴重品などの手荷物のみだったそうだ。

 

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町の入り口に設定されたキリル文字で書かれた「プリピャチ」の看板

 

今は誰も住んでいない”ゴーストタウン”プリピャチ。彼らが住んでいた団地に入り、部屋を見て回る。多くの年月が経っており、そして除染作業もありどこも荒れ、荒廃した廃墟となっている。

 

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32年前、どんな生活をしていたのか。2時間という短時間で、どんな気持ちで荷支度をしたのだろうか。政府からすぐに戻ってこれると説明を受けた彼らは、「一時的な避難だろう。すぐに帰ってこられる。」と思っていたが、結局二度とその自分の家に帰ることはできなかった。

 

除染作業のお蔭で、数値は0.2μSv以下と安定してる。が、長期で住むことは勿論不可能だ。900年後にようやく人が住める状態になるとも言われいる。900年後という、想像もできない途方もない数字を聞くとこの事故の影響の大きさを実感する。

 

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数値は落ち着いているが、ホットスポット(高濃度に放射能汚染されている場所)がいくつかある。雨水がたまる草木の周辺はホットスポットとなる傾向があり、ガイドが今まで歩いていた道を少し外れた草木の近くにガイガーカウンターを近付ける。それまで静かに数値を測定していたガイガーカウンターが突如音を発する。

 

次第に、周りにいた自分たちのガイガーカウンターも反応を始める。1台、また1台と次第に警告音が鳴り始め、大音量になっていく光景に恐怖を強く感じた。

 

 

今まで自分たちが歩いていた道から、ほんの数歩移動しただけで大きく変わる数値。目に見えない恐怖に、それからのツアーは歩き出すのに勇気が必要だった。

 

「この道は平気なのか?」

「この建物は本当に問題ないのだろうか?」

「本当にこのガイドは信頼出来るのか?」

 

事前にガイドから指示に従って行動すれば問題はないことは説明をきちんと受けていたが、不安が募る。息を吸うのが嫌になる。空気が毒ガスのように感じて息が上手く吸えなくなり、呼吸が苦しくなる。深呼吸をするのをためらう。何を信じればいいのか分からなくなる。

 

32年の時を経て辺りには緑が生い茂り、空気が美味しいとさえ感じる景色である。が、確かに見えない”もの”で強烈に汚染されている。それは人が900年も住めないレベルにまで。

 

 

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以前は栄えていたコミュニティセンターや広場、ホテル、スイミングプールやバスケットコートといったスポーツ施策を見て回る。ここも当時から時が止まったよう。ソ連のシンボルマークなどその名残が多く残る。

 

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ガイドが当時の写真を見せてくれる。計画都市として作られたことの町は、ソ連ではかなり近代的な都市だった。住民の大半が原子力関係の仕事に従事しており、病院やホテル、幼稚園や学校、そして多くの団地が存在していた。緑が生い茂り、荒廃したその場所を歩いていると、華やかな当時の雰囲気を感じることはあまり出来ない。

 

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バスは遊園地へ。この遊園地は事故から4日後の5月1日にオープン予定だった。そのため、結局一度も開園することなく現在に至っている。観覧車やゴーカート、回転遊具などが当時のまま残っている。この遊園地はプリピャチの、そしてチェルノブイリのシンボルとなっている。

本来であれば、家族の笑顔と笑い声で溢れたウクライナの未来の”幸せの象徴”になるはずであった場所。しかし、一度もその役目を果たす事は無く、寂しげに徐々に廃れていく。

ユートピアと思われていた場所は、実は巨大なディストピア性を含んでいた。

 

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バスはプリピャチを去り、最後に「レッドフォレスト」と呼ばれる場所を通り過ぎる。ここは事故発生後、大量の放射性物質により森林が枯れ、その葉色が緑から一気に赤色に変化したことから呼ばれている。すでに木々のは元の姿に戻っているように見えた。前日に博物館で見た「赤い森林」とは打って変わっていた。

 

通り過ぎる際に、車内のガイガーカウンターが鳴り響く。点滅音はすぐにけたたましい警告音に変わり、数値が急上昇する。ツアーも終盤となり、少し気が抜けていた際のことだったので、一気に現実に戻され、再度恐怖心で心が揺れる。

 

すぐに警告音は収まり、数値も以前のものに戻っていく。除染活動も多く行われ、緑も戻った「レッドフォレスト」であるが、その影響は消えずに確かに残っている。それが見えず、隠れているだけだ。

 

最後に旧ソ連で使用されていた、当時は極秘のミサイルレーダー施設へ。高さ幅ともに100mを越える巨大な施設。対核ミサイルのレーダーとして利用されていたもの。以前は立入禁止だったが、今は見学することができる。

 

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こうして、最後の施設を見てツアーは終了。

2箇所のゲートを抜けキエフに戻る。ゲートではX線検査のような装置を用いて自身の放射線被曝量を測り、チェックする。

 

ミニバスに乗り込み、2時間掛けて首都に20時前に戻った。

 

 

「目に見えない恐怖」とチェルノブイリの未来

 

今回、実際に自分の足で訪れて1番心に残っているのは、やはりガイガーカウンターが急上昇した時とその警告音だろう。

 

「ビー!ビー!ビー!」というガイガーカウンターの警告音。

そして、みるみる上がっていく数値。

 

「目に見えない恐怖」がここまで恐ろしいとは思わなかった。思えば今まで自分が体験した恐怖とは、その多くが「目に見える恐怖」であったと思う。

銃を持ったパレスチナでのイスラエル兵や、都市部の深夜の裏通りにたまる人々など、その恐怖は視覚的なものだった。成長し経験するにつれて知識は増え、恐怖を識別し避ける能力は高まる。「目に見える恐怖」を自らの意志で対処することができるようになる。

 

「あの人は危険そうだから、近寄らないようにしよう」

「この通りは暗いから、やめよう」

「あの犬は凶暴そうだから、離れて歩こう」

 

「目に見えない恐怖」は恐怖の大きさどころか存在さらも認識することができない。だから能動的に対処ができない。

今回、チェルノブイリでの美しいとさえ感じる自然に包まれたその雰囲気と、そこに潜んだ「見えない恐怖」とのギャップがその恐怖をさらに鮮明にした。

 

そして、もう1つがガイドが話していた内容も印象的だった。

 

今回のガイドの叔父は元除染作業員だそうだ。その影響もあり彼女はチェルノブイリ原発について、周りの友人よりも元々関心があったと話す。

 

ツアー参加者の1人が彼女に、ウクライナでのチェルノブイリ事故に対する教育について聞く。

 

「確かに教科書で習ったわ。キエフからもすぐ近くだし。でも何ていうんだろう。『世界大戦について学んでる』ような感覚なのようね。近年の事だし、とても悲惨なことが起こったのはもちろん理解できるんだけど、自分ゴトに思えない。」

 

確かに彼女の言っている事はとても理解できた。彼女も自分と同じように32年前は生まれていない。まだ32年しか経っていないにも関わらず、次第に「過去のもの」となっている空気がウクライナにはある。

 

彼女はこう続けた。

 

「私たちのさらに下の世代になったら、どんどんその風潮は強まっていくでしょうね。」

 

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強制避難となった約90の集落の名前を刻んだプレート

 

・・・

 

バスがキエフの街に近付き、多くの高層ビルやマンションが見えた時にホッとした。排気ガスが多く、汚染されているハズの空気を吸った時に安心感を覚えた。都会の空気は美味しくは無いが「安心」だった。「安全」だった。この街にある恐怖の多くは、自分の知っている「見える恐怖」であった。

 

今回このツアーに参加したことで、現地に行ったことで、感じてしまった。日本からは遠いが確かに存在する、その現実を知ってしまった

「知ってしまった」という言い回しをしているが、これは自らの体験によってでしか得ることができない感覚であると思う。「自分ゴト化」と似ている。

どんなにニュースを見ても、本を読んでも、専門家の講演を聞いても、たった1回の経験には勝てないことがある。現実に、確実にこの世界に存在していることを知ってしまった自分はこれからどう生きていくか。考えていくか。

 

 

恐怖とは何なんだろう。

 

安心とは何なんだろう。

 

 

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自分たちが幸せと思っている、幸せにしたいと思っているこの世界はユートピアなのか。それともディストピアなのか。

 

 

*許容の放射線量等については学者、識者により諸説あります。

*ツアー参加は自己責任の上、各自の判断でお願い致します。